想像の余地を与えないから今日も詩人になれません
その昔、会話をしていてふいに私に「きみは詩人にはなれない」と言ったのは誰だったか。と、書いてみて実際のところ、これを言った人が誰かって私は覚えているのだけど、言った本人はきっと覚えていないし、今回それがメインという事ではないので伏せておきます。
それはさておき。この言葉を言われたとき、わたしは少しばかりショックを受けたと言いますか、いや、別に、常日頃詩人になりたいと思って生きているか、とかそういうわけではないんですけど。ただ、その言葉を受け取るにあたって、「きみはロマンがない」だとか、そういう意味で当時の私は捉えさせて頂いたんですよね。だってその時の私と言えば、
“ハリーポッターは秘密の部屋までしか見てないけどディズニー映画は大体好きだし、漫画もアニメも小説も、とにかく非日常な事が好きだと自分を理解している、この私が詩がかけないなんて、ロマンがないなんて!そんなァ嘘だよ!”ってそんな事思ってたんです。(あーうん、この時点で詩かけないっすね。)
でも今更になって、もしかしたらこの言葉の裏には、私の本質を突く何かが隠されていたのかもしれないと考えるようになりました。まぁ、それを言った当の本人はそんなこと考えてもなかったかもしれませんが。
結論から言いますと、私の書く文章って文の中に全部答えがあるんですよ。
つまりはそこで完結しちゃってるんです。余韻もへったくれもありません。でもそりゃそうだ。だって私、自分がすっきりするために文章書いてるんだもん。今自分が何を考えているか、出来る限り言葉にして、ちょうどいいところまで整えて、出す。で、それをわざわざ人目のつくところに載せるじゃないですか。なぜそうするかって、それはわかってほしくて、見て聞いて欲しくて載せてるんです。
何か伝えたいことがあるからこそ、人は文字を綴るのだと思っています。そんな私は自己満足だけじゃ飽き足らず「こういう考えもってるってこと、わかってくれよな」という、この押しつけがましさがあるわけなんですよ。おかしいな、このひとつ前の投稿で、自分は押しつけがましく無いものが好きだって言ってるのに。同族嫌悪とはまさにこのこと。あーやだやだ。話それました。
ええと。とはいえ。人間誰しも100パーセント理解のある人なんていません。身内でも無理なこともある。だから、他人が私の書いたものを読んで、「なんだこれつまんない」みたいな反応は全然許せるんですけど、でも!「何言ってるかわかんなかった」だと、もう、ほんと、意味がない。だって伝えたくて書いてるんです。これこう思うの!って言いたくて書いてるんです。だから、そこが折れてたら、ダメ。そういう気持ちで今も打っているんです。するとどうですか、圧がヤバいですよね。これじゃあただの散文だもん。
私は散文の対として詩があると思っているのですが、それは、かの有名な詩人・谷川俊太郎さんのこのインタビューにも書かれている通りでした。
詩には「答えはこれである」というようなものは無いんです。詩は散文とは違って、論理で組み立てられているわけではありません。いろんな意味が重層していて、捉え方によってはすごく「曖昧」なものだし、割り切れないものなんです。人によって受け取り方も違うものなんですよね。
つまり、詩の「意味」っていうのはあまり重要じゃないんです。
やっぱり・・・そりゃ、詩人にはなれないよなぁ。
多分、昔からこういうことを思っていて、だからこそ「詩」って、むずかゆくって苦手でした。でも素敵な詩には、想像の余地があるということを知ったいま、私は詩人になれないということへの確信を以て、詩とそれらを綴るひとに、畏敬の念を送ります。
とはいえこの谷川さんの上記のインタビューは不思議だった。
「詩はくだらないもの」、といいながら、「詩を書く時は、どこで書こうと常に読者っていうものを意識して書いていますね。読んでくれる人、あるいは声に出すときは聞いてくれる人のことを考えながら、書いたり声に出したりしていますね」と彼は言う。
え、それってくだらなくないのでは・・・なんて自分の考えは無粋でしょうか。ああ、というわけでまた詩人からは遠のいてしまいました。
ひとまず、私を詩人になれないといったきみへ。あの時は、怒ってごめん。
私はあなたの言う通り、今日も詩人にはなれません。
折坂悠太さんのこと
島根の話も途中だけれど、先日東京で折坂悠太さん(今回は合奏)と寺尾紗穂さん(冬にわかれて)を見たので冷めないうちにこちらを先に綴っておく。
寺尾紗穂さんについては実は来週も拝見するので、今回は折坂悠太さんの事を書きたい。
ひとまず彼の音楽はジャズでありブルースであり長唄でありわらべ歌だった。
曲調によってそのジャンルが違うように聞こえる、と言うだけは簡単だけどきっとそれだけじゃない。
歌われる詞や言葉の選び方が独特にも関わらず、どこか親しみがあり懐かしい情景が思い出される。
なんでだろうな、考えながら聞いていてもスッと入ってくる伸びやかな声に耳をすます。
初めての曲も沢山演奏してくれたので歌詞があっているかわからないけど、彼の詞には人間だけでなく、植物や自然や動物が人間と同じ目線、もしくは希望の対象として沢山出てくることに気がついた。
そういう風に自然を自分達と同じ目線で見ることは、大人になるとなかなか難しい。
だからこそ彼の歌は、子供の頃に草むらで遊んでいた 鳥の声だとか風の音を聞いたあの頃のことを思い出させるのだ。もう少し歳を戻れば子守唄にも近いような。そんなものを感じて心から安心したのだった。
インタビューで語られていたことには、曲を作る上で「誰の感覚としてもより多くの人が感じるものを」と考えているようで。
押し付けがましくない安心感のある歌は、その考えからきているのだなと納得。
その男、天才につき──折坂悠太、この世と別世界を繋ぐ歌声、ライヴ音源をハイレゾ独占配信 - OTOTOY
こう書いていて、いまの自分が欲してるのはどこまでも「押し付けがましくなさ 」なんだな、と思ってまぁそらそうなんだけども…うん て感じでなんだか笑ってしまった。
島根のこと
少し前から1年前に行った島根のことをたびたび思い出しては、記録としてまとめたいなぁと思いつつ先延ばしにしていたところ、今日ふいに島根で知り合った方からご連絡があり、なんだかやっぱり並々ならぬご縁を感じてしまったので今日まとめておこうと思う。
そもそもの始まりは3月、その時につとめていた会社を辞める2か月前。
有給消化のために連休とっていいよとのお達しがあったので、関西からふらりと一人で行けてなおかつ未開拓のところを考えた時、偶然出てきたのが島根だった。
なんというか、単純に疲れていたんだと思う。いろんなことがあった時期だったから。なかなか思うように行かないというか・・・そういうわけで、ちょっくら出雲神社にでもいって清められてこようかな、みたいな軽い気持ちだった。
そんな風に軽く決めた行先にも関わらず、思い返せば島根にはその時の自分にとって魅力的なものがたくさんあったように思う。とはいえ、今ここであげてしまうとこれから書くことがなくなってしまうので、とりあえず順を追って書いていくことにする。なんだか長くなりそう。まぁ気長に書いていきます。
まずは旅の準備について。
私は、旅そのものもそうだけど、実は出発前の準備期間が1番わくわくして好きなのかもしれない。
旅先への交通機関や着いてからの時間割。どこで何を見て何を食べるか・・・と言っても、結局現地に着いたら行き当たりばったりが基本なのだけど。しかし知らないより知っているほうがなにかと便利ということもある。「下調べは入念に、旅先では柔軟に」。これ、旅のモットーだと思ってる。勝手にね。
あとは持っていくものも重要。もちろんなるべく身軽がいいのだけど、あんまり軽すぎてもひとりだし、なんか不安。そんなときはいつも気に入った本をひとつ入れる。別に読まないかもしれないんだけど、お守りみたいなもん。あとは新作も1冊。こっちは完全に暇つぶし用として。
さていざ出発のとき。今回は京都駅から昼行便で、15時過ぎに出雲に到着予定のバスに乗り込んだ。その時すでに、なんとなくいい気持ちになる。旅行に出かけるときに感じることができる、心地よい解放感。この感覚が味わいたいというのも遠出の理由のひとつかもしれないな。
当時、バスに揺られながら書き残しているものがある。
バスや電車に乗る間は好きな曲を手放せなくて、去年頃からよく聞くようになったのは寺尾紗穂さん。
「楕円の夢」という曲を出している。
8分もある。でもふわふわと聞いていたらすぐ過ぎている。もう一度聞く。その繰り返し。
丸でも四角でもない楕円。
耳を傾けながら曲について調べていると、インタビューする側・される側がとてもリラックスしたいい記事を見つけた。
曖昧なものをそのまま言葉にすることは難しいから、表現者は何かしらメタファーをつくるのだけど、それでもこうして意味を教えてくれるということは、とても信頼できることだな、と思う。
そうした意味をもつものを選び、触れている自分を感ずるとき、ふだんの自分、そしていまの自分をあらためて考えることができる気がする。
そんなこんなで、出雲につくところまで書いたけれど、ここからどんどん色んな事が起きてしまうので、いったん休憩。
2014年から再稿:祖母のこと
私は母方の祖母のことを「おばあちゃん」と呼んだことは本人や家族の前では一度もないし、心のどこかで実は不死身の人か魔女の類なんじゃないかと疑っていた。いつからかは知らないけど、家の中でも暗くてせまくて、でもなぜかクーラーとタンスはどの部屋よりも一等のものが置いてある小さい部屋に、趣味の海外旅行先で購入したわけのわからない仮面だとか、気味がわるい人形とかを飾っていたし。
毎日化粧をかかさず、一番好きなブランドはイヴサンローラン、いやエスティーローダーだっけ、別にどっちでもいいけど、服だって私や姉とおんなじ服屋で買っていて、それでも不思議と浮いてないところがやっぱりなんとなく魔女クサさを助長させた。
そのうえ口が悪くて世の中のことをシャバとか呼ぶし、マジックとか怪奇番組か大好きで、齢80を過ぎても本当に足腰がつよくて元気な人で、今でもびっくりするけど私が履くよりたっかいヒールのパンプスを履いて友だちと飲みに歩いていた。
何より自分に自信が満ち溢れている人だったし、誰かが彼女を苦笑したり、冷めた目で見ても折れない何かがある気がしていた。
そんなだから、私は祖母のことを死んでも死なないような不死身の人だと昔から思い込んでいた。何より、彼女の口癖である「どうせ私はもうすぐ死ぬからね」という言葉のせいでもあった。
きちんと聞かされてはいなかったけど確実になにかの病気を患っていて、色々な薬を飲んでいたことも知っていたし、最初こそ驚いて信じていた。けど、そう言い始めたのは覚えている限りでは多分10年前くらいから。きっかけは年金をもらいはじめてから、1年に数え切れないほど海外旅行に行っては湯水のように金を使うことを家族に非難されたことからだ。
「言いたかないけど、どうせ私はもうすぐ死ぬんだから、好きなことやんないとダメなんだ」
そう言って、もう10年。その10年の中で、何回旅行にいったり、何度酔っ払って帰ってきては風呂場ですっ転んだにも関わらず次の日にはぴんぴんしていたりしていたことか。そんな感じで単純に生命力に溢れすぎる人だったから、正直その口癖に私は飽き飽きしていた。オオカミ少年みたいなもんで、言われるたびに「また始まったか」って感じでたぶん家族の誰も聞く耳をもっていなかった。おそらく本人も面白半分に口にしていたとおもう。それが私が高校までの話。
そこから月日は流れて私は大学に入学し、実家を離れ一人で暮らしを始めた。たまに実家に帰るたびに、彼女の旅行話を聞いてはげらげら笑っていた。だってこの歳になっても友だちと旅行先で喧嘩してもう絶交したとかいう話してくるし、ありえないだろう普通。大学時代、実家に帰る楽しみのひとつはこうして彼女の話を聞くことでもあった。
そんな彼女が入院したことを知ったのが、今年の六月に帰省したとき。
私が帰ってくるということで、前日行きつけの飲み屋特製のギョウザを買いに行きにし、酔っ払って道で転んだらしい。いや、ギョウザて。好きだけど。その日もいつものごとくヒールのパンプスを履いていて、転び方が悪くそのまま骨折したそうだ。単純にはしゃぎすぎ。普通にその時はあほかと思った。
帰省してすぐ病室にかけつけると、オイオイ泣きながら自分を責めるもんだから珍しく落ち込んでるなと思ってすぐ治るよ、と声をかけると、「今月も台湾と横浜に行く予定があったのに・・・」などという。こいつはまったく懲りてない。さすがの私も呆れて何も言えなかった。
「病院食もまずいし見舞いに来る友達にすっぴんを見られるのもこりごり。早く退院して音楽聴いたり美味しいもの食べたい」と言う彼女はああまりにもいつも通りで、何を言っても聞かないだろうと判断した私たち家族はそのまま病室を後にしたけど、そういえば最近あの口癖を聞いてないな、ということに病室から出て気がついた。
きっかけは今年のお正月に彼女の夫である私の祖父が亡くなったことかもしれない。祖父が亡くなってから、80を過ぎて落ち着いていたはずの旅行癖や飲み癖がよりヒートアップしていたそうだ。
身内の死があって、軽はずみなことが言えなくなっちゃったんじゃない。家族はそう言ったけど、まぁ、彼女のことだからすぐに退院して、這ってでもどこかに出かけるだろうと私は思っていた。そういや、最近ジャズに興味あるし、退院したら彼女が持ってるたくさんのレコードから聞かせてもらおう、とかそんなこと考えてたのが六月の話。
それで、七月になって八月になって、
彼女は魔女でもなければ不死身でもなく普通の、82歳のおばあちゃんだったということに気がついたのが彼女が亡くなった昨日。
意識がなくなったのはほんの2週間前のこと。
その後連絡がなく、もう退院したのかな、と思っていた矢先。姉から「前日まで普通に病室で話してたのに、急に意識がなくなった」ってメールが来たけど、その時はぜんぜん信じられなかった。「元々脳の病気があって、急に悪化したらしい」?「もうしゃべれない」?いやいや、だって、ちょっと前、あんなぴんぴんしてたじゃん。アホかよ。どうせまた意識もどるっしょ。いつもの感じで。とか、色々考えた。
それで2日前、帰省して見舞いにいった。病室は個室に移されていた。入った瞬間、彼女が趣味でよく聴いていたジャズの音楽が聞こえてきた。ほらやっぱ意識あるじゃん、と思ったけど、意識がなくなる前、ずっと聴いていたものを担当のナースさんがかけてくれていたことだった。見ると祖母は本当に意識がなかった。覇気もない。普通の人みたい。なんだこれ。
と、いうような状況を目にしても私は、いやいやいや、そんなん、知らないし。かかってるこの曲も、よく聞いてたけど結局なんてやつか、わかんないじゃん。退院したら教えてもらおうと思ってたんですけど、何最後までかっこつけちゃってんの、あほかよと思うしかなかった。
なんだかその状況がまったく飲み込めなくて、その時わたしはまだ、いや絶対、この人は死んでも死なないし、絶対意識もどるしとかなんとか思って、そのまま京都に戻って仕事して、それで昨日。
父から「亡くなりました」ってだけメールがきた。
ぜんっぜん実感わかない。そもそも、意識がないってとこから、飲み込めてなかったのに。
なんだかあっけなすぎて、未だに信じられないし、すっきりしない。そんなことを考えながら今これを書いてても、やっぱりどこかで、またぴんぴんしてんじゃないの?とか思ってる自分が居てなんだかなぁと思うし、その反面いろんな思い出が蘇ってきてなんかいそがしい。
そんな中で思うことは、
一緒に暮らしててもそうだけど、離れて暮らすと、思いのほか自分が家族のことに鈍感になるっていう怖さがあるということ。
一人暮らしをはじめて、ありがたいことに無事4回誕生日を迎えて、自分が歳をとるってことを当たり前に実感していた。
それで、自分が歳をとるってことは、家族が歳をとるのも必然なはずなのに、どうして当たり前に、うちの家族に限ってなんもないでしょ、とか、ずっと元気だとか思ってたんだろう。
記憶のなかにある祖母は、ずっとぴんぴんしたままの感じだ。祖父もそうだった。だけど、離れてくらしている間、言われていないだけで、静かにでも確実に、彼女の病気は進行していたんだろう。きっと見ないうちに老け込んでいるところもあっただろうなぁと、今更ながらに思ったりする。
彼女だけじゃなく。姉も父も母も。いつかはそうなる日が来る。絶対。
そう思うとなんかすっごい焦るし、今出来るうちに何かしないとって、嫌でも思ってくる。
それこそ、彼女の口癖であった「もうすぐ死ぬし」っていうのを、ポジティブにもネガティブにも捉えていくべきなんだろうとも思う。
いつどうなるかなんてわからん。マジでわからん。
とかなんとか、そういうことを色々書いてても、なんだかやっぱり全然しっくりこない。お悔やみ申し上げます、とか、かわいそうに、とかいわれても、はて、なんのことやら、としか思えないのが今のかんじ。
まあ、でもいまとりあえずこんだけ書いて改めてわかったのは、マジでうちの祖母は破天荒でアホで、でもなによりどこのばーちゃんよりイカしてたんじゃないのっってことだ。
だって正直、こんなばーちゃん、いないっしょと思う。いまんとこ、聞いたことない。
書いててネタかよって思ったけど全部実際のことっていうのが逆におそろしい。
色々書いたけど、その血を受け継ぐ孫として、結局んとこ、結構誇らしい。
実家にかえって、式にでても、みんなきょとんとしてそうだ。 遺言とか残してるんだろうか。 みんなでわいわい騒ぐのが好きだったから、しんみりすんなボケとか書いてあるかもしれない。 そうおもうと不謹慎だけど、ほんのちょっと、面白い。
こんな感じで、わたしはそんな祖母をなんやかんや心より尊敬していたってことを、彼女がいなくなってから感じはじめているような気がする。とか書いてたらなんとなく実感が湧いてきた。ような。
とりあえず、あさって祖母の顔をみて納得させようとおもう。
うまくまとまらないけど、すっきりしたのでお風呂入って寝ます。
ほんのひとつき
7月が終わっていく。
仕事と住まいが大幅に変わった5月ごろからここで細々と続けていた「書く」という行為について、このひとつき、本当に立ち向かうことができず少し困っていた。
どこかの占いで見た「2017年上半期は1度すべてを出しきってしまうので、下半期、特に7月は『燃え尽きた』感じで何もできなくなってしまうかも」というような状態にまさに近く、(文章による影響を受けやすいタイプなのでそれを真に受けている可能性もあるが)遅れてきた5月病のような状態がここのところ続いていた気がする。
ふだん私が「書く」ときは、思ったことをそのままつらつらと書き始め、好きなリズムだったり言い回しに勢いがつくと夢中になって筆が進み、満足して書き終わった後は気持ちの整理ができてすっきり!・・・というタイプ。
ただこのひとつきは、思ったことを書こうにも書けない、そんな気持ち悪さとやる気のなさを感じていた。結果、自己の精神にまとまりがないことを良くない方面で考え込んでしまって、いよいよどこにも逃げ場がない・・・という状態が続く。
たいへんつらく、しばらくはインプット作業、もしくは本当にしんどい時は「何もしない」*1ことに注力していたと思う。
とはいえ、「書く」という行為以外でアウトプットしていたことも多い。
アウトプットの方法なんて本人次第なのだから良いも悪いも無いとは思っているが、このひとつき特にしていた「何でもないことで人と連絡を取る・話す」ということはとても助けられたし良かったな、と今更に思う。
それは自分からその手段を取ることもあれば、偶然か、はたまた何かを感じたのか友人から不意にくることも多かった。
その相手はこちらの友達ももちろんなのだけど、一番助けになったのは京都にいる友人だとか、自分の住まいとは別の土地で頑張っている古くからの友人達の存在だった。
近しい話やローカルな話はその土地に住んでいる人に話すことで理解が深まることもあるが、現状、直近の自分を知る友人は今は遠くにいることが多いし、何より客観的な目線で見て出してくれる意見が心地よかった。(とはいえ、話によっては私個人の意見を通して伝えているところがあるので、そのバイアスは避けられないけれど・・・)
いやはや、ほんのひとつき、自分から何も生み出すことができない間。
友人の言葉や声にどれだけ助けられたんだろう。
他愛もない話でたくさんの時間を共有することができた、本当にありがたい1か月だった。
おかげで今、忘れかけていたやりたいことをようやく思い出したりしている。
そして実は最近、これまでも考えはしていたがなかなか手を出していなかったこと、をなんとなく始めた。
これが完成する時は自分の中でまた何か燃え尽きたりするのだろうか。
現状、想像もできないけれど、休みながらも、どうにか向き合いたいな、と今は思う。
そんなことをいいながら、今月末は今日から少し地元を離れて楽しい日々を過ごします。
夏が来るよ。私はこの夏をどうしていく?
とりあえず、今の所はまだ「書く」ことはできそうだ。
*1:いつもの私にとっては「何もしない」ということが一番のストレスなので(大げさではなく割と本当に)、こうなってしまった時はいよいよ駄目だ、と思いその数日は「寝る」ことに徹した。(夜ご飯を食べて即八時に就寝、みたいな。「寝る」ことは「何もしない」には繋がらないと思っている。なぜなら夢を見てるから。)
何が正義という話ではなく
各々のこだわりと謙虚、というか虚栄もしくは怯えとか寂しさだとかが同居したサブカルチャーが好きだった 虚像と牽制 大声で話せないような気持ち悪い笑い方を我慢するような市民権がないような 仲間かと思ったら地雷を踏んだり 匿名をもって平気で傷つけ合うような それでいてすぐに身元を晒されるかもしれないそんなひりつきと隣り合わせになるような独特の閉塞感 現実から離れた高揚と居心地の良さを感じる瞬間
とてもしんどいので観返すのもなかなか気が向かないけれど、思い出すのが岩井俊二「リリイ・シュシュのすべて」(2001)
地方の学生とサブカルチャー、集団の交わりの薄暗さ
ただの思い出です
Lily Chou-Chou - Glide リリイ・シュシュ- グライド
あらゆるものがメインカルチャーにすり替わった今でも新たなサブカルチャーが対抗して生まれる希望もあるだろう つみあがった地はなだらかな平坦になってはいくけど そんなことを考えていくこと 思い出すことそういう居場所を自分自身でも作ること
線と当たり屋
人が好きで、人と話すことが好きで。
そういう時間をわざわざ持つために1人でどこかに出かける時がある。
そうして居ると、物怖じしないとか落ち着いているとか、いわゆるコミュ力あるよね、とかって言われる事がある。
前二つはいずれも自分に暗示をかけて行っていることなので、最終的な結果としてのコミュ力あるよね、であれば喜ばしいことだ。
・・・喜ばしいことだ、と書いてそもそも、「コミュ力あるよね」、って褒め言葉なのか?と疑問に思った。
というのも、これまでの私の人とのコミュニュケーションというと、特に初対面の場合、『当たり屋』的な要素が大きいことを最近自覚してきたからだ。
当たり屋(あたりや)とは、交通事故の損害賠償金を取得する目的において、故意(未必の故意を含む)に交通事故を起こし、当該目的を実現しようとする者を言う。
(wikipediaより)
ここで言うところの『損害賠償金』に代わるものは"その場の酒代"とか直接お金につながるようなことではなく、例えばその時に約束をして次の機会に再度会うだとか。初対面から知人、波長が合えばよく会う友人へ、『人間関係としてのランクアップをしていく機会を得る』ということ。
人の時間は有限なので、その限りある時間を自分と接するために使ってもらうと思うと、それはお金なんかより大事なものだし、もちろん何にも変えられない。なので、相手にとってはド迷惑になることもあると思う。そういった意味での、『当たり屋』的という表現をしていきます。
『事故』にあたる部分とはその名の通りで、例えばカウンターの隣の席に座った瞬間に始まっているのかもしれない。そして、そこで自分以外の誰かを見つけて、相手に気になることがあるとどうしても口をついて言葉が飛び出す。いや、ディスとか悪口とかではなくてですね。とりあえず説明の前にひとつ話を挟みます。
先日初対面の方と話していて、人との会話についての議題として出たのが、"1番回答に困る質問"について。
それは「◯◯のなかで(1番)好きなものって何?」という至極単純で、むしろ初対面ならば頻出するであろう質問と言われればその通りなのだけど。
では何故困るかって、それは本当に自分の好きなジャンルがその◯◯に当てはまった時、本当に答えたいものを相手が知らなかった時の反応にトラウマがあるからだと。
まぁそれは確かにその通りなのだけど、裏を返せばその話題を元にその人自身のかなりインナーな部分の話が出来るのではないか?と私は思う。
その機会は生かすも殺すも双方の会話や雰囲気次第なのだけど、私はこういった機会をバシバシに作って相手の中に入ろうとしてしまう癖がある。
人が話をする時の、どんどん内面が現れてくるあの瞬間が愛おしくて楽しくてたまらない。だから、話される内容に否定はしない。というか出来ない。そもそも初対面なのでその時の判断は難しいし、する方される方なんてものを作るとお互い好きなことが話せない。(法にふれるとか、道理として良くないなぁと思うときは微妙だけど)
「◯◯のなかで好きなものは何ですか?」
「嫌いな季節はありますか?」
「これまで出かけた中で1番遠いところはどこですか?」
「朝ごはんはパンですかごはんですか?」
「小学校の時の部活動は何をしていましたか?」
「最近、デートしましたか?」
・・・なんて。
勿論、相手の嫌なゾーンには気をつけて。
(ただその注意もあくまで自分のなかの「つもり」なので、それが相手にとって迷惑な当たり屋的行動であれば即座に反省・その身をその場から消すべきであるとは考えています。。)
そういうわけで、当たり屋的なコミュニケーションの取り方がこれまで功を奏したか、はたまたたいへんな迷惑になったかは私が知らないこともたくさんあるだろうけど、結果として受けるのが初めの言葉。
「コミュ力あるよね」、と。
・・・書いて居るうちにやっぱり褒め言葉じゃない気がしてきた。まあネガテイブはやめよう。
そうして人との会話をする中でも勿論、初めから、この人は人見知りだな、とか、人とお話しする上でいろんなものを守るために、ある程度の"線"をきっちりと引いている人は居る。
そうした人に会った時、私の身体はその線の前で急ブレーキをかける。
同時に、その人の内から出る魅力に気づかされる。
ああそうだ。コミュニケーションって、ゆっくりとゆっくりと、時間を重ねてすることだった。そういうシンプルなひとつの考えを、今更になって思い出す。
そうして出来た間柄は続く。その場限りではなく。それを最初からわかって、時間を無駄にせず、自分の大切なものを知って居る人たち。
そういう人との出会いがあって、普段の自分の当たり屋コミュニケーションへの自覚と反省が出たのだった。
それにしても、そういった方の魅力って本当に凄まじくって。私が言われる「落ち着いてる」なんて付け焼き刃のものなんかじゃない。
それまでの生き方が雰囲気となって纏われて居る。
でも、どうしたらそうなれるとかっていうものでもなくて。
私は私で堂々と生きていこうって、今はそれだけです。開き直りみたいですみません。
でも今はそれだけ。