京都の少し高いバー

これはうその話なんですけど、まだ京都にいて働いていた頃私は販売業で平日がお休みだったんです。今からする話の日はお休み前の仕事終わりでまぁその日も同じく平日なんですけど私にとっては華金というやつで今日は飲みたいなぁなんて思ったところでして。ただ普通の人はふつうに明日も仕事なわけで誰もつかまらなかったんですね。でもどうしてもこのまま飲みに行かずしてまっすぐ家に帰るなんて、と湧き上がる思いを捨てきれず、結局その日の晩は普段は行かないような少しお高めのバーにひとりで行ってみることにしました。時間は7時半ごろでバーとしてはまだ早めの時間なこともあり、扉をあけてみると初老のマスターが上品な声のボリュームで挨拶をしてくれたのみでほかのお客さんは居ませんでした。

 

こじんまりとした店内の客席はカウンター席だけ、一度入ったからにはそのまま出ることは許されない雰囲気に少し緊張しましたが、ひとまず座ってメニューがないことを確認し、取り急ぎジントニックを頼みました。わたしが座った席は入って一番右奥、ダリアの花を模したライトがうすく明るく周りの酒瓶を照らしているのが綺麗でじっと見ていると、マスターが静かにグラスを置いてくれました。

 

さてひとりでバーに座るのは初体験というわけではありませんでしたが、こんなにいい雰囲気のバーは生まれて初めてだったので、なるべくこの雰囲気をこわしてしまわぬよう、慣れない空気にそのまま混ざれるわけでもないけれど音を立てるにも氷の音だけに私は徹していました。

ただ一口飲んだだけでもとても美味しいこのジントニックは、いつものペースで飲んでしまってはきっと五分ともたないけれど、財布の中身ももたないなぁなどと浅はかな考えを顔に出さぬよう思考を巡らせていた私でしたが、そんな様子に気づいてかマスターはグラスを拭きながら、失礼ですがいらしたのは今日が初めてですか?とたずねました。

ウソをつくメリットもないので素直にそうです、と伝え、もしかして場にそぐわないことをしでかしてしまったかな、ととても不安な気持ちがよぎりましたが、マスターは気にするでもなく、それではゆっくりしていってくださいね 今日はきっとお客さんあまり来ないから、と嫌味のないほほえみを浮かべてくださいました。私はなんだか照れくさくなり、ありがとうございますとだけ伝えると、先ほどあれだけ悩んでいたジントニックを次の二口目でいっぺんに飲みほしてしまったのでした。

 

元々食べ物を食べずに飲んでいたものですからいつもよりも酔いが早く回る感覚がありましたが、気持ちが悪くなるどころか、その後もマスターが絶妙なタイミングでお話してくださるので、普段のささいな悩みや希望を交えつつ自分の話をしていたかと思います。

マスターは肯定も否定もせず、頷きながら時々へぇ、だとかほぉ、とつぶやいて私の話を聞き続けてくれました。その間もいっこうに他のお客さんが来る気配はなかったのですが、丁度会話のきりがいいタイミングのときに店の電話がジリリンとなりました。昔ながらの黒電話、というよりはバーの雰囲気にぴったりとマッチした西洋風の電話機。すみません、少し失礼します、とマスターが電話を取りに奥へ行く間に、なんだかんだで飲みすぎてしまった、と自分の状態を省みつつ腕時計を見ると10時過ぎ、早い時間から長居をしてしまったなあ、と思った矢先、マスターが奥から戻ってくるのが見えました。

 

昔からよく来てくれる方が、今たまたま京都に来ているそうで、このあと寄ってくれるんだそうです。マスターの顔を見るとなんだか嬉しそうでした。そんな素敵な再会を邪魔するわけには、と思いましたが、ここに来て他のお客さんを見ずに帰るのもな、とついやじうま根性が働いてしまったのです。それでも、ひとまずお水をもらって今あるウィスキーを飲み干したら帰ろう、と決めてはいたのですが。

 

そしてマスターが私にお水を出した瞬間でした。木製の扉が開いたのです。初めての自分以外のお客さん。少し大げさですがなんだかどきどきしながら少し目線を向けると、私が扉の奥で目にしたのは、

 

紛れもなく、普段お茶の間でよく拝見するあの男性だったのです。

 

その瞬間、見てはいけないものをみてしまった、と即座に脳が判断し、座っていた丸椅子の向きを仕切り直して私は目の前の水に全集中をこめました。ただ、少し目を閉じると浮かんでくるのは馴染みのテレビ番組や、ラジオで聞いた面白い掛け合い。彼への興味と彼の尊厳を守りたい気持ちが交差し、酔っ払いながらもひとり勝手に心苦しい感情でいっぱいでした。

 

それでも左から聞こえて来るのはよく知った軽快な口調と声。やはり興味を隠しきれるはずもなく、ただ本当にこういう時は、絶対に邪魔をしてはいけないな、と決めたとき、おひとりですか?と自由に満ちあふれた彼の声が左から聞こえてきたのでした。

話しかけられた!心が爆発するような高揚を感じながら、声は平静を装います。あっはいそうです。私はちら、と目線をふってまた前を向きました。どうしよう、やはり間違いなくあの人です。

そんな彼はなんの躊躇いもなく、えっ、マスター女の子が1人なんて珍しいね、いつものあのウェーブのかかった、そうそうあの女の人とかしかさ、俺見たことなかったから、つってもまぁそんなに足繁く通わせていただいてるわけじゃないのにさ、エラそうにもいえないんだけどねえ、なんてゲラゲラと笑っていて。その空間が嘘みたいで、でも二席分空いた距離がなんだかやっぱりリアルでなんとも不思議な気持ちでした。

 

マスターは私の話を聞いていた時と同じく優しく頷いては豪快に飲む彼に、今回はお仕事で?ヘェ、やっぱりいそがしそうにしてるね身体は壊したりしてない?などとあたたかく気遣いながら、お勧めであろう酒瓶をいくつかテーブルに並べはじめます。

そういや平日なのに結構飲んでるみたいだけど明日は大丈夫なの? また彼が話しかけてくれたので、いよいよ、もう慣れるしかあるまい、と思い直し、仕事柄明日がお休みなので今日はたくさん飲もうかと。と精一杯の引きつった笑顔を見せると、彼は嬉しそうな顔でいいねえ!とちいさく叫ぶと、じゃあお勧めのこれ、よかったら一緒に飲みませんか?と今度は私が気遣れることになりました。困った目線でマスターをちらりと見ると、先と変わらぬ笑顔のままグラスをふたつ用意してくれたので、お言葉のままにご一緒させていただき、いいからいいから、と言われ彼の隣の席でお話しをさせてもらうことになりました。

そんな時も私は絶対に舞い上がってはいけない、と自分に誓い、彼のお仕事には触れないようにしながら話をしようとも思いましたが、いくつか話を進めていったとき、少しの間のあと、悔しげな顔でもしかして、俺のこと知らない?と彼に尋ねられたので、私は少し笑っていえもちろん存じています、と伝えると、あーよかった俺全然知名度ないのか、それとも本当に知らなかったら相方の写真見せるとこだったわ、絶対にしたくなかったから良かった、なんてご冗談をいうので、私は私でこの時この場所が照明の暗いところで本当によかったと心底思ったのでした。だって絶対に顔が真っ赤だったろうから。

さて何回おかわりを伝えたでしょう、腕時計を見ると12時を超えたところで、マスターは他のお客さんもこなさそうだから、そろそろこの時間で、と彼に告げました。その瞬間私は元いた席に置いた鞄を取ろうとしましたが、それより先に彼は手早くお会計を済ませ、楽しい夜をありがとう、と言ってそのままマスターと私に別れを告げて帰っていきました。まるではじめからそこに居なかったかのように。

あまりの早さで、御礼もろくに伝えていない!と焦る私にマスターは、ああいう人ですから、今外に出てももうきっと居ないです。もしかしたら夢だったかもしれませんね、と言って少しお茶目な笑みを浮かべながら、でもここの店はずっとありますから、またお待ちしてますよ、と言って扉を開けてくれました。

なんだか声にならない気持ちが喉まできていたのですが、私はただ一言ありがとう、と伝えてそのお店を後にしました。

外に出るといつものよく通る帰り道で、確かにマスターの言った通り彼の姿なんてどこにももう無く、ただぼんやりとした道路をぼんやりとした頭でとぼとぼと歩きその日は家に帰りました。

 

 

それ以来そのお店に行くことはなく私は京都を去ってしまいましたが、これだけその時の状況や場面は文章に起こすことは出来ても、そのバーの名前や、マスターの顔やあの時のあの瞬間の彼との他の会話の内容なんかはどうしたって思い出すことができないんです。

 

 

まぁ全部うその話だからなんですけど。