どうしてたって生活 例えば頼るものは音楽

どうしてたって生活だ、と感じることが第一だと思います。

 

それは例えば風邪を引いたときに感じる、普段普通にできることが出来なくなってしまった時であったり 健康な状態でその普通をしている最中にふと、それらがすべていとおしくなったりする時 自分の空っぽさにただただ悲しい時など いろんな時があってその時どきの生活がありますが、今している生活、それが絶対的な答えである、というわけでもないこと、それがどうしてたって生活だと思い、最終的に愛しているうちは、楽しい暮らしができると思っています。

「はた目から見ていつでも明るいこと、が必ずしも健康ではない時があること」はこれが理由になるのかなぁ、なんて思ってみたりもします。いや、あくまで主観ですけどね。

 

それらをつかまえる時って個人的には言葉が大事だと思っていて、自分の言葉だけではやはり拙いので、実体にするために他人の言葉に頼ることがある。

それは映画でも本でも何でもいいんですけど、手っ取り早く自分の中に入れ込んだり、それを元に自らを吐き出したり、となると、自分としては「音楽」がいいな、と思っています。

地雷地雷といわれながらも、そういった生活を大事にしているバンドマンなんかは、いつまでもあこがれだし、やっぱりめちゃくちゃ大好きなんですよね。

とてもつらい時間を過ごした生活や、大切な人や仲間がいてくれた生活、恋人かどうかもわからない間柄との気だるげなあやうい生活、一人でもたのしい生活、なんでもない生活を歌っている人々。

 

それらを何度も繰り返し聴き、自分のことのように思い重ねた頃。そしてそうした頃を通り過ぎていくと、少し大人になって、その音楽に遅れて出会った人たちをときどき下に見ながら、その時の最新ヒットチャートや新しい技法の音楽を聴いたりして。そんな昔のものに構っている場合ではない、なんて言いながらその時の自分も置き去りにしたつもりで、聴くことが少なくなった音楽もいくつかあるでしょう。

 

それでも、今耳を傾ける音楽は、当時聴いたものでなくとも、やはり生活をなぞって歌われているものばかりではないですか?

もしくは昔よく聴いた曲を久しぶりに偶然耳にした時、やっぱりいいなぁって素直に口に出して言えなくとも、心の中でそう思うことは何度だってあったはずなんです。聴くアーティストや、独自の言い回し、歌われ方が変わっても、きっと根っこの部分は実は変わらない。

それは提供する側もそうだし、される側もそうなんじゃないかなぁ、と思います。考え方は変わっても、その時の自分はずっと自分を見てきているから。そしてそれもきっと生活の一部なんだろう、と思ったり思わなかったり思いたくない日もあるけど・・・。

 

そうして考えた時人に聞きたくなる。「音楽は好きですか?そして、何かの度に、聞いている音楽はありますか?」。そうやって聞かれてすんなり出てくる音楽、あなたにはありますか?

勿論なくてもいいし、いいんですけど、とりあえず私はあります。気恥ずかしいこともあるけれど、でもそれが変わらないのも生活です。

 

個人的な話。たぶん今ここ最近の中でも割といい状態で生活を愛していて、少しずつ、他人の言葉に頼らずとも生きていける気もしたし、それがないと出てこない言葉ももちろんある。

それでも、何もなく不安だった頃よりかは、少し幸せになった気持ちだと実感したりする。

そうして私はまたその音楽を聴きます。

これは私にとっては、きっといつまでも救いの歌です。

 


polka dots/FoZZtone

 


この曲を書いたのはもう10年も前ですが、当時から僕は「如何にしてユーモアで危機を回避するか」ということに作詞の面白味を感じていたのだと思います。
如何なる時も、ウィットなジョークでピンチをかわしたいものですね。
「その染み、消えないならいっそ水玉にすれば?」

決して上手いジョークではありませんが。

Vo.渡會 将士 (2014.5.3)

 

昔買ったCDは見当たらなくなってしまった。聴く機器は今手元にないのに思い立って昨日注文をした。

けどそれはそれでいいんだ。

どうしてたって生活だ。