想像の余地を与えないから今日も詩人になれません

 

その昔、会話をしていてふいに私に「きみは詩人にはなれない」と言ったのは誰だったか。と、書いてみて実際のところ、これを言った人が誰かって私は覚えているのだけど、言った本人はきっと覚えていないし、今回それがメインという事ではないので伏せておきます。

 

それはさておき。この言葉を言われたとき、わたしは少しばかりショックを受けたと言いますか、いや、別に、常日頃詩人になりたいと思って生きているか、とかそういうわけではないんですけど。ただ、その言葉を受け取るにあたって、「きみはロマンがない」だとか、そういう意味で当時の私は捉えさせて頂いたんですよね。あーうん、この時点で詩かけないよお前。だってその時の私と言えば、

ハリーポッターは秘密の部屋までしか見てないけどディズニー映画は大体好きだし、漫画もアニメも小説も、とにかく非日常な事が好きだと自分を理解している、この私が詩がかけないなんて、ロマンがないなんて!そんなァ嘘だよ!”ってそんな事思ってたんです。

でも今更になって、もしかしたらこの言葉の裏には、私の本質を突く何かが隠されていたのかもしれないと考えるようになりました。まぁ、それを言った当の本人はそんなこと考えてもなかったかもしれませんが。

 

結論から言いますと、私の書く文章って文の中に全部答えがあるんですよ。

つまりはそこで完結しちゃってるんです。余韻もへったくれもありません。でもそりゃそうだ。だって私、自分がすっきりするために文章書いてるんだもん。今自分が何を考えているか、出来る限り言葉にして、ちょうどいいところまで整えて、出す。で、それをわざわざ人目のつくところに載せるじゃないですか。なぜそうするかって、それはわかってほしくて、見て聞いて欲しくて載せてるんです。

何か伝えたいことがあるからこそ、人は文字を綴るのだと思っています。そんな私は自己満足だけじゃ飽き足らず「こういう考えもってるってこと、わかってくれよな」という、この押しつけがましさがあるわけなんですよ。おかしいな、このひとつ前の投稿で、自分は押しつけがましく無いものが好きだって言ってるのに。同族嫌悪とはまさにこのこと。あーやだやだ。あ、話それました。

ええと。とはいえ。人間誰しも100パーセント理解のある人なんていません。身内でも無理なこともある。だから、他人が私の書いたものを読んで、「なんだこれつまんない」みたいな反応は全然許せるんですけど、でも!「何言ってるかわかんなかった」だと、もう、ほんと、意味がない。だって伝えたくて書いてるんです。これこう思うの!って言いたくて書いてるんです。だから、そこが折れてたら、ダメ。そういう気持ちで今も打っているんです。するとどうですか、圧がヤバいですよね。これじゃあただの散文だもん。

私は散文の対として詩があると思っているのですが、それは、かの有名な詩人・谷川俊太郎さんのこのインタビューにも書かれている通りでした。

詩には「答えはこれである」というようなものは無いんです。詩は散文とは違って、論理で組み立てられているわけではありません。いろんな意味が重層していて、捉え方によってはすごく「曖昧」なものだし、割り切れないものなんです。人によって受け取り方も違うものなんですよね。

つまり、詩の「意味」っていうのはあまり重要じゃないんです。

やっぱり・・・あーそりゃ、詩人にはなれないよなぁ。

 

多分、昔からこういうことを思っていて、だからこそ「詩」って、むずかゆくって苦手でした。でも素敵な詩には、想像の余地があるということを知ったいま、私は詩人になれないということへの確信を以て、詩とそれらを綴るひとに、畏敬の念を送ります。

 

とはいえこの谷川さんの上記のインタビューは、不思議だった。

「詩はくだらないもの」、といいながら、「詩を書く時は、どこで書こうと常に読者っていうものを意識して書いていますね。読んでくれる人、あるいは声に出すときは聞いてくれる人のことを考えながら、書いたり声に出したりしていますね」と彼は言う。

え、それってくだらなくないのでは・・・なんて自分の考えは無粋でしょうか。ああ、というわけでまた詩人からは遠のいてしまいました。

 

私を詩人になれないといったきみ、元気ですか?あの時は、怒ってごめん。私はあなたの言う通り、今日も詩人にはなれません。